農(nóng)作物の多様性はまた日本のモザイック的景観をいろいろに色どりくまどっている。地形の複雑さは大農(nóng)法を拒絶させ田畑の輪郭を曲線化し、その高低の水準(zhǔn)を細(xì)かな段階に刻んでいる。ソビエトロシアの映畫(huà)監(jiān)督が「日本」のフィルムを撮(と)って露都で公開(kāi)したとき、貓(ねこ)の額のような稲田の小區(qū)畫(huà)に割拠して働く農(nóng)夫の仕事を見(jiàn)て観衆(zhòng)がふき出して笑ったという話である。それを気にして國(guó)辱と思っている人もあるようである。しかし「原大陸」の茫漠(ぼうばく)たる原野以外の地球の顔を見(jiàn)たことのないスラヴの民には「田ごとの月」の深甚(しんじん)な意義がわかろうはずはないのである。日本人をロシア人と同じ人間と考えようとする一部の思想家たちの非科學(xué)的な根本的錯(cuò)誤の一つをここにも見(jiàn)ることができるであろう。
稲田桑畑芋畑の連なる景色を見(jiàn)て日本國(guó)じゅう鋤鍬(すきくわ)の入らない所はないかと思っていると、そこからいくらも離れない所には下草の茂る雑木林があり河畔の荒蕪地(こうぶち)がある。汽車に乗ればやがて斧鉞(ふえつ)のあとなき原始林も見(jiàn)られ、また野草の花の微風(fēng)にそよぐ牧場(chǎng)も見(jiàn)られる。雪渓(せっけい)に高山植物を摘み、火口原の砂漠(さばく)に矮草(わいそう)の標(biāo)本を収めることも可能である。
同種の植物の分化の著しいことも相當(dāng)なものである。夏休みに信州(しんしゅう)の高原に來(lái)て試みに植物図鑑などと引き合わせながら素人流(しろうとりゅう)に草花の世界をのぞいて見(jiàn)ても、形態(tài)がほとんど同じであって、しかも少しずつ違った特徴をもった植物の大家族といったようなものが數(shù)々あり、しかも一つの家族から他の家族への連鎖となり橋梁(きょうりょう)となるかと思われるようなものにも乏しくない。つつじの種類だけでもその分化の多様なことは日本が隨一で中でも信州が著しいという話である。
話は植物の話である。しかしこのような植物の多様な分化を生ぜしめたその同じ気候風(fēng)土の環(huán)境の多様性が日本人という人間の生理を通してその心理の上にまでも何かしら類似の多様性を分化させるような効果をもたないで済むものであろうか。これは少なくも慎重な吟味を加えた後でなければ軽率に否定し去ることのできない問(wèn)題であろう。のみならず、その環(huán)境によって生まれた自然の多様性がさらにまた二次的影響として上記の一次的効果に參加することも忘れてはならないのである。
植物界は動(dòng)物界を支配する。不毛の地に最初の草の種が芽を出すと、それが昆蟲(chóng)(こんちゅう)を呼び、昆蟲(chóng)が鳥(niǎo)を呼び、その鳥(niǎo)の糞粒(ふんりゅう)が新しい植物の種子を輸入する、そこにいろいろの獣類が移住を始めて次第に一つの「社會(huì)」が現(xiàn)出する。日本における植物界の多様性はまたその包蔵する動(dòng)物界の豊富の可能性を指示するかと思われる。
試みに反対の極端の例をあげてみると、あの厖大(ぼうだい)な南極大陸の上にすむ「陸棲動(dòng)物(りくせいどうぶつ)」の中でなるものは何か、という人困らせの疑問(wèn)に対する正しい解答は「それは羽のない一種の蚊である」というのである。こんな國(guó)土もあることを考えると、われわれは蚊もいるが馬も牛もおり、しかも虎(とら)や獅子(しし)のいない日本に生まれたことの幸福を充分に自覚してもいいのである。
今私は淺間山(あさまやま)のふもとの客舎で、この原稿を書(shū)きながらうぐいすやカッコウやホトトギスやいろいろのうたい鳥(niǎo)の聲に親しんでいる。きじらしい聲も聞いた。クイナらしい叩音(こうおん)もしばしば半夜の夢(mèng)に入った。これらの鳥(niǎo)の鳴き聲は季節(jié)の象徴として昔から和歌や俳句にも詠ぜられている。また、日本はその地理的の位置から自然にいろいろな渡り鳥(niǎo)の通路になっているので、これもこの國(guó)の季節(jié)的景観の多様性に寄與するところがはなはだ多い。雁(がん)やつばめの去來(lái)は昔の農(nóng)夫には一種の暦の役目をもつとめたものであろう。
野獣の種類はそれほど豊富ではないような気がする。これは日本が大陸と海で切り離されているせいではないかと思われる。地質(zhì)時(shí)代に朝鮮(ちょうせん)と陸続きになっていたころに入り込んでいた象や犀(さい)などはたぶん気候の変化のために絶滅して今ではただ若干の化石を殘している。
朝鮮にいる虎(とら)が気候的にはそんなに違わない日本にいないのはどういうわけであるか、おそらく日本の地が大陸と分離した後になってこの動(dòng)物が朝鮮半島に入り込んで來(lái)たのではないかと思われる。貓(ねこ)は平安朝に朝鮮から舶來(lái)したと伝えられている。北海道のひぐまも虎と同様で、東北日本の陸地の生まれたとき津軽海峽(つがるかいきょう)はおそらく陸でつながっていたのではないかと思われるが、それがその後の地変のために切斷してそれが潮流のために広く深く掘りえぐられた、それから後にどこかからひぐまが蝦夷地(えぞち)に入り込んで來(lái)たのではないかと想像される。四國(guó)にはきつねがいないということがはたして事実ならばこれも同様な地史的意義をもつかもしれない。それはとにかく日本が大陸にきわめて接近していながら、しかも若干の海峽で大陸と切り離されているという特殊の地理的條件のために日本のファウナがどういう影響を受けているかということは上記の雑多な事実からも了解されるであろう。
昔は鹿(しか)や猿(さる)がずいぶん多くて狩猟の獲物を豊富に供給したらしいことは、たとえば古事記の雄略(ゆうりゃく)天皇のみ代からも伝わっている。しかし人口の増殖とともに獲物が割合に乏しくなり、その事が農(nóng)業(yè)の発達(dá)に反映したということも可能である。それが仏教の渡來(lái)ということもあいまってわが國(guó)におけるこれらのゲームの絶滅をかろうじて阻止することができたのかもしれない。
水産生物の種類と數(shù)量の豊富なことはおそらく世界の他のいかなる部分にもたいしてひけを取らないであろうと思われる。これは一つには日本の海岸線が長(zhǎng)くて、しかも広い緯度の範(fàn)囲にわたっているためもあるが、さらにまたいろいろな方向からいろいろな溫度塩分ガス成分を運(yùn)搬して沿岸を環(huán)流しながら相錯(cuò)雑する暖流寒流の賜物である。これらの海流はこのごとく海の幸(さち)をもたらすと同時(shí)にまたわが國(guó)の気候に第二次的影響を及ぼして陸の幸をも支配する因子となっているようである。
先住民族は貝塚(かいづか)を殘している。彼らの漁場(chǎng)はただ浜べ岸べに限られていたであろうが、船と漁具との発達(dá)は漁場(chǎng)を次第に沖のほうに押し広げ同時(shí)に漁獲物の種類を豊富にした。今では発動(dòng)機(jī)船に冷蔵庫(kù)と無(wú)電裝置を載せて陸岸から千海里近い沖までも海の幸の領(lǐng)域を拡張して行った。
魚(yú)貝のみならずいろいろな海草が國(guó)民日常の食膳(しょくぜん)をにぎわす、これらは西洋人の夢(mèng)想もしないようないろいろのビタミンを含有しているらしい。また海膽(うに)や塩辛(しおから)類の含有する回生の薬物についても科學(xué)はまだ何事をも知らないであろう。肝油その他の臓器製薬の効能が醫(yī)者によって認(rèn)められるより何百年も前から日本人は鰹(かつお)の肝を食い黒鯛(くろだい)の膽(きも)を飲んでいたのである。
これを要するに日本の自然界は気候?qū)W的;地形學(xué)的;生物學(xué)的その他あらゆる方面から見(jiàn)ても時(shí)間的ならびに空間的にきわめて多様多彩な分化のあらゆる段階を具備し、そうした多彩の要素のスペクトラが、およそ考え得らるべき多種多様な結(jié)合をなしてわが邦土を色どっており、しかもその色彩は時(shí)々刻々に変化して自然の舞臺(tái)を絶え間なく活動(dòng)させているのである。
稲田桑畑芋畑の連なる景色を見(jiàn)て日本國(guó)じゅう鋤鍬(すきくわ)の入らない所はないかと思っていると、そこからいくらも離れない所には下草の茂る雑木林があり河畔の荒蕪地(こうぶち)がある。汽車に乗ればやがて斧鉞(ふえつ)のあとなき原始林も見(jiàn)られ、また野草の花の微風(fēng)にそよぐ牧場(chǎng)も見(jiàn)られる。雪渓(せっけい)に高山植物を摘み、火口原の砂漠(さばく)に矮草(わいそう)の標(biāo)本を収めることも可能である。
同種の植物の分化の著しいことも相當(dāng)なものである。夏休みに信州(しんしゅう)の高原に來(lái)て試みに植物図鑑などと引き合わせながら素人流(しろうとりゅう)に草花の世界をのぞいて見(jiàn)ても、形態(tài)がほとんど同じであって、しかも少しずつ違った特徴をもった植物の大家族といったようなものが數(shù)々あり、しかも一つの家族から他の家族への連鎖となり橋梁(きょうりょう)となるかと思われるようなものにも乏しくない。つつじの種類だけでもその分化の多様なことは日本が隨一で中でも信州が著しいという話である。
話は植物の話である。しかしこのような植物の多様な分化を生ぜしめたその同じ気候風(fēng)土の環(huán)境の多様性が日本人という人間の生理を通してその心理の上にまでも何かしら類似の多様性を分化させるような効果をもたないで済むものであろうか。これは少なくも慎重な吟味を加えた後でなければ軽率に否定し去ることのできない問(wèn)題であろう。のみならず、その環(huán)境によって生まれた自然の多様性がさらにまた二次的影響として上記の一次的効果に參加することも忘れてはならないのである。
植物界は動(dòng)物界を支配する。不毛の地に最初の草の種が芽を出すと、それが昆蟲(chóng)(こんちゅう)を呼び、昆蟲(chóng)が鳥(niǎo)を呼び、その鳥(niǎo)の糞粒(ふんりゅう)が新しい植物の種子を輸入する、そこにいろいろの獣類が移住を始めて次第に一つの「社會(huì)」が現(xiàn)出する。日本における植物界の多様性はまたその包蔵する動(dòng)物界の豊富の可能性を指示するかと思われる。
試みに反対の極端の例をあげてみると、あの厖大(ぼうだい)な南極大陸の上にすむ「陸棲動(dòng)物(りくせいどうぶつ)」の中でなるものは何か、という人困らせの疑問(wèn)に対する正しい解答は「それは羽のない一種の蚊である」というのである。こんな國(guó)土もあることを考えると、われわれは蚊もいるが馬も牛もおり、しかも虎(とら)や獅子(しし)のいない日本に生まれたことの幸福を充分に自覚してもいいのである。
今私は淺間山(あさまやま)のふもとの客舎で、この原稿を書(shū)きながらうぐいすやカッコウやホトトギスやいろいろのうたい鳥(niǎo)の聲に親しんでいる。きじらしい聲も聞いた。クイナらしい叩音(こうおん)もしばしば半夜の夢(mèng)に入った。これらの鳥(niǎo)の鳴き聲は季節(jié)の象徴として昔から和歌や俳句にも詠ぜられている。また、日本はその地理的の位置から自然にいろいろな渡り鳥(niǎo)の通路になっているので、これもこの國(guó)の季節(jié)的景観の多様性に寄與するところがはなはだ多い。雁(がん)やつばめの去來(lái)は昔の農(nóng)夫には一種の暦の役目をもつとめたものであろう。
野獣の種類はそれほど豊富ではないような気がする。これは日本が大陸と海で切り離されているせいではないかと思われる。地質(zhì)時(shí)代に朝鮮(ちょうせん)と陸続きになっていたころに入り込んでいた象や犀(さい)などはたぶん気候の変化のために絶滅して今ではただ若干の化石を殘している。
朝鮮にいる虎(とら)が気候的にはそんなに違わない日本にいないのはどういうわけであるか、おそらく日本の地が大陸と分離した後になってこの動(dòng)物が朝鮮半島に入り込んで來(lái)たのではないかと思われる。貓(ねこ)は平安朝に朝鮮から舶來(lái)したと伝えられている。北海道のひぐまも虎と同様で、東北日本の陸地の生まれたとき津軽海峽(つがるかいきょう)はおそらく陸でつながっていたのではないかと思われるが、それがその後の地変のために切斷してそれが潮流のために広く深く掘りえぐられた、それから後にどこかからひぐまが蝦夷地(えぞち)に入り込んで來(lái)たのではないかと想像される。四國(guó)にはきつねがいないということがはたして事実ならばこれも同様な地史的意義をもつかもしれない。それはとにかく日本が大陸にきわめて接近していながら、しかも若干の海峽で大陸と切り離されているという特殊の地理的條件のために日本のファウナがどういう影響を受けているかということは上記の雑多な事実からも了解されるであろう。
昔は鹿(しか)や猿(さる)がずいぶん多くて狩猟の獲物を豊富に供給したらしいことは、たとえば古事記の雄略(ゆうりゃく)天皇のみ代からも伝わっている。しかし人口の増殖とともに獲物が割合に乏しくなり、その事が農(nóng)業(yè)の発達(dá)に反映したということも可能である。それが仏教の渡來(lái)ということもあいまってわが國(guó)におけるこれらのゲームの絶滅をかろうじて阻止することができたのかもしれない。
水産生物の種類と數(shù)量の豊富なことはおそらく世界の他のいかなる部分にもたいしてひけを取らないであろうと思われる。これは一つには日本の海岸線が長(zhǎng)くて、しかも広い緯度の範(fàn)囲にわたっているためもあるが、さらにまたいろいろな方向からいろいろな溫度塩分ガス成分を運(yùn)搬して沿岸を環(huán)流しながら相錯(cuò)雑する暖流寒流の賜物である。これらの海流はこのごとく海の幸(さち)をもたらすと同時(shí)にまたわが國(guó)の気候に第二次的影響を及ぼして陸の幸をも支配する因子となっているようである。
先住民族は貝塚(かいづか)を殘している。彼らの漁場(chǎng)はただ浜べ岸べに限られていたであろうが、船と漁具との発達(dá)は漁場(chǎng)を次第に沖のほうに押し広げ同時(shí)に漁獲物の種類を豊富にした。今では発動(dòng)機(jī)船に冷蔵庫(kù)と無(wú)電裝置を載せて陸岸から千海里近い沖までも海の幸の領(lǐng)域を拡張して行った。
魚(yú)貝のみならずいろいろな海草が國(guó)民日常の食膳(しょくぜん)をにぎわす、これらは西洋人の夢(mèng)想もしないようないろいろのビタミンを含有しているらしい。また海膽(うに)や塩辛(しおから)類の含有する回生の薬物についても科學(xué)はまだ何事をも知らないであろう。肝油その他の臓器製薬の効能が醫(yī)者によって認(rèn)められるより何百年も前から日本人は鰹(かつお)の肝を食い黒鯛(くろだい)の膽(きも)を飲んでいたのである。
これを要するに日本の自然界は気候?qū)W的;地形學(xué)的;生物學(xué)的その他あらゆる方面から見(jiàn)ても時(shí)間的ならびに空間的にきわめて多様多彩な分化のあらゆる段階を具備し、そうした多彩の要素のスペクトラが、およそ考え得らるべき多種多様な結(jié)合をなしてわが邦土を色どっており、しかもその色彩は時(shí)々刻々に変化して自然の舞臺(tái)を絶え間なく活動(dòng)させているのである。