「おまえの手紙はたいへんうれしい。しかし返事がなかなか書けない。時間があっても、私を熱情にまでかりたてる語學(xué)への愛情が、休息をあたえないから」。トロイの遺跡の発掘で知られるシュリーマンが、妹に送った手紙だ?!杆饯辖瘠扦弦晃澶珖Zを話したり書いたりすることができるようになった」(「古代への情熱」巖波文庫?村田數(shù)之亮訳)。
“收到你的來信,很高興??晌乙恢睕]能回信。因為雖有時間,但對語言的鐘情已使我狂熱,不給我一點休息的時間”。這是因發(fā)掘特洛伊遺址而聞名于世的謝里曼寫給妹妹的信?!艾F(xiàn)在,我已經(jīng)可以用十五國語言來說話、書寫了”(《傾注于古代的熱情》巖波文庫·村田數(shù)之亮譯)
數(shù)學(xué)者で大道蕓人のピーター?フランクルさんも、語學(xué)に情熱を燃やした。大學(xué)で講義ができる程度に話せる言葉は12カ國語もあるという。そのフランクルさんが、自著「美しくて面白い日本語」(寶島社)で「日本語ほど難しい言語は他に見たことがない」と書いている。
數(shù)學(xué)家兼街頭藝人彼得·弗朗克爾也對學(xué)習(xí)語言熱情高漲。據(jù)說達(dá)到能在大學(xué)講課程度的語言,他就會講12國。而就是這個弗朗克爾在其著作《美麗而有趣的日語》(寶島社)中寫到:“從沒見過像日語這么難的語言?!?BR> 漢字の多さや読みの複雑さの他に、敬語の難しさをあげる。日本人にとっても敬語を使いこなすのは容易ではない。文化庁の「國語に関する世論調(diào)査」では、「敬語が難しい」と感じている人が全體の3分の2を占めた。
書中指出,日語除了漢字多且讀法復(fù)雜外,敬語也很難。其實,就連日本人要將敬語運用自如,也絕非易事。據(jù)文化廳所作的“國語之民意調(diào)查”,約有三分之二的人都覺得“敬語很難”。
「お」の付け方の調(diào)査がある。お菓子、お酒、お米は多數(shù)派で、おビール、おかばん、お手紙は少數(shù)派だった。
其中專門有接頭詞“お”用法調(diào)查。大多數(shù)人認(rèn)為,在“點心”、“酒”、“米”之前是要加“お”的,只有少數(shù)人認(rèn)為,在“啤酒”、“錢包”和“書信”之前也要加“お”。
半々に分かれたのは、酢だ。おす、と聞けば雄(おす)も連想するが、すの一言だけでは、どこか心もとない感もある。確かに「お」の付けすぎは聞き苦しいが、表現(xiàn)の多様さもまた、日本語の妙味の一つだろう。
對于“醋”之前是否要加“お”,人們意見有分歧,且勢均力敵各占一半。加了“お”,變成“おす”,會叫人聽成“雄”(注:諧音),單說一個“す”(注:醋的日語發(fā)音),又總覺得讓人聽不清。當(dāng)然,不管什么前面都加個“お”,確實叫人聽著別扭,可表達(dá)方式的多樣性也是日語的妙趣之一吧。
「文化の大本(おおもと)である日本語の良さ、面白さ、楽しさ、複雑さなどを多面的に眺めて、それを改めて學(xué)んでみてはどうだろう」。言葉を、特技のジャグリング(西洋お手玉)のように操る、フランクルさんからの「お勧め」だ。
“我們是否應(yīng)該首先從作為文化之根本的日語所具有的優(yōu)美、有趣、生動以及復(fù)雜性等諸多方面進(jìn)行考察之后,再重新來學(xué)習(xí)它呢?”這便是弗朗克爾的“建議”,將語言如同拋布袋游戲般地來擺弄。
“收到你的來信,很高興??晌乙恢睕]能回信。因為雖有時間,但對語言的鐘情已使我狂熱,不給我一點休息的時間”。這是因發(fā)掘特洛伊遺址而聞名于世的謝里曼寫給妹妹的信?!艾F(xiàn)在,我已經(jīng)可以用十五國語言來說話、書寫了”(《傾注于古代的熱情》巖波文庫·村田數(shù)之亮譯)
數(shù)學(xué)者で大道蕓人のピーター?フランクルさんも、語學(xué)に情熱を燃やした。大學(xué)で講義ができる程度に話せる言葉は12カ國語もあるという。そのフランクルさんが、自著「美しくて面白い日本語」(寶島社)で「日本語ほど難しい言語は他に見たことがない」と書いている。
數(shù)學(xué)家兼街頭藝人彼得·弗朗克爾也對學(xué)習(xí)語言熱情高漲。據(jù)說達(dá)到能在大學(xué)講課程度的語言,他就會講12國。而就是這個弗朗克爾在其著作《美麗而有趣的日語》(寶島社)中寫到:“從沒見過像日語這么難的語言?!?BR> 漢字の多さや読みの複雑さの他に、敬語の難しさをあげる。日本人にとっても敬語を使いこなすのは容易ではない。文化庁の「國語に関する世論調(diào)査」では、「敬語が難しい」と感じている人が全體の3分の2を占めた。
書中指出,日語除了漢字多且讀法復(fù)雜外,敬語也很難。其實,就連日本人要將敬語運用自如,也絕非易事。據(jù)文化廳所作的“國語之民意調(diào)查”,約有三分之二的人都覺得“敬語很難”。
「お」の付け方の調(diào)査がある。お菓子、お酒、お米は多數(shù)派で、おビール、おかばん、お手紙は少數(shù)派だった。
其中專門有接頭詞“お”用法調(diào)查。大多數(shù)人認(rèn)為,在“點心”、“酒”、“米”之前是要加“お”的,只有少數(shù)人認(rèn)為,在“啤酒”、“錢包”和“書信”之前也要加“お”。
半々に分かれたのは、酢だ。おす、と聞けば雄(おす)も連想するが、すの一言だけでは、どこか心もとない感もある。確かに「お」の付けすぎは聞き苦しいが、表現(xiàn)の多様さもまた、日本語の妙味の一つだろう。
對于“醋”之前是否要加“お”,人們意見有分歧,且勢均力敵各占一半。加了“お”,變成“おす”,會叫人聽成“雄”(注:諧音),單說一個“す”(注:醋的日語發(fā)音),又總覺得讓人聽不清。當(dāng)然,不管什么前面都加個“お”,確實叫人聽著別扭,可表達(dá)方式的多樣性也是日語的妙趣之一吧。
「文化の大本(おおもと)である日本語の良さ、面白さ、楽しさ、複雑さなどを多面的に眺めて、それを改めて學(xué)んでみてはどうだろう」。言葉を、特技のジャグリング(西洋お手玉)のように操る、フランクルさんからの「お勧め」だ。
“我們是否應(yīng)該首先從作為文化之根本的日語所具有的優(yōu)美、有趣、生動以及復(fù)雜性等諸多方面進(jìn)行考察之后,再重新來學(xué)習(xí)它呢?”這便是弗朗克爾的“建議”,將語言如同拋布袋游戲般地來擺弄。